自分のことばかり考える贅沢

特に何もすることがないので、ずーっと自分のことを考えている。

毎日、何もしていないと不安になってしまうが、人の脳とは通常は暇だと色々と先のことを考えて不安になるもののようだ。
とはいえ、月末に実家に帰るまではどうしたってこの状態が続く。

ここは気持ちを切り替えて、何もすることがなく自分のことだけ考えていられる、それは何て贅沢なことなんだろう、と考えることをわたしは選ぶことにした。

とにかく自分を自分で観て、自分が何を感じて何を歓びとしているのかを一日中考えている。

けっこう集中力がいるので、内観になるという神聖幾何学を綿棒で作ったり、波動が高いという龍体文字を書いてみたり、youtubeの誘導瞑想を試してみたり、絵を描いてみたり、好きな文章を写したり。

さて、こんなことを考える前のわたしは結構人当たりが良く優しいフリも上手く、他人の悪口は言わないと決めていたので、友達が多く飲みの誘いも頻繁で、特にコロナ以前は一人でいることは殆どなかった。

わたしは人が好きだし、余程わたしのことが嫌いとかではない限り、どの人の中にも良い部分を見つけることができた。
ただ、その反対にどんな人の中にも癖や弱い部分を見つけることもしていた。

だから、殆どの人のことは好きだけど信用はしていなくて、頼ったり相談したりすることはなく、内心では優越感にひたっていた。

何でそんなに後先考えず感情のまま行動するのだろう?バカなの?それとも考えることもできないくらい精神的に弱いの?とか。
もちろん、顔にも態度にも出さないし、そんなこと思ってるなんて絶対言ったりしませんが。

その優越感は多分上手く生きるということに対しての優越感で、わたしの中でなくてはならないものだった。

さあ、わたしは何故そんなことをしていたのか。

本当の自分は弱くて要領が悪く、トロくてぐすだし、優しくもなく気配り目配りもできない、理解力も劣るから他人にうとまれて嫌われる。
だから強くて要領が良くてテキパキして優しい気配り上手なわたしを演じないといけない。
そう思っていたからだ。
思っていた、昨日まで!!

色んなことが上手くこなせるようになったけど、それはわたしが本当の自分を隠蔽するために必死にパテみたいに塗りかためて上手に隠したつもりになっていた。

わたしは最初から弱い部分はあるかもしれないが、問題があるほど弱くはなく、要領はわりと良いし、トロくもぐすでもなく、どちらかといえば優しくて理解力もちゃんとある。でも例えば、もし弱くてぐすだったりバカだったりしても、うとまれて嫌われたりしない。本来、どんなわたしだって愛されて当然なんだから。

先日、母のことは書いてみたが、まだまだわたしは母親の創った物語の設定の中で生きていているようだ。抜け出せていなかったようだ。

まだまだ澱が沢山あるだろう。
生きている間に、ちゃんとわたしに戻りたい。