わたしという乗り物

わたしがウニヒピリの庭に遊びに行くときの自分自身のイメージは若い頃の自分。
現在の自分の身体はまたまた勝手にイメージして作ったヒーリングカプセルみたいなものに入れているんですが、今日はウニヒピリと一緒にそれを見にいったんですよ。

老化した自分を眺めて、まず最初に醜いという言葉が浮かびました。
緩んだ身体、弛んだ肌、疲れた顔。。。
ああ、歳をとったなと悲しい気分になったので、ウニヒピリといっしょにその悲しさをクリーニングしました。

そうすると、わたしはこの身体という乗り物がすごく好きで気に入っていたのに、ろくに手入れもしないで粗く乗り回してしまった結果がこれなんだと申し訳ない気持ちになったので、それをクリーニンクしました。

そうしていたら、それなのに頑張って生きてきてくれたんだなぁという思いが沸き上がってきて、醜くなった自分の身体への感謝とか愛情がでてきました。
その気持ちもありがとう、愛してるでクリーニングしたら、もう醜いなんて全く思えなっていて、ただただ愛している大事な人がそこにいました。

身体をもっと大事にしてピカピカに磨いて、少しでも長持ちするように手入れしたいな、と思いました。

ウニヒピリのお庭

ホオポノポノを実践しはじめてから、ウニヒピリのお部屋とお庭を造りました。

想像なので好きなように楽しく作って、今もちょこちょこ増設中です。
わたしのウニヒピリはそこで過ごしていて、わたしもウニヒピリとお喋りするときはそこに行くし、ただ遊びにいくこともあります。
あくまでも想像の中の話ですけどね。

その想像の中のウニヒピリのお庭が、昨日偶然見つけた「夢色共和国」というブログの中で夢ちゃんという女の子がママにお話している世界にそっくりだったから何だかとっても嬉しくなりました。
虹色の滝とか温泉とか。

わたしの想像の中では、そこにはわたしのウニヒピリしかいなくて、いつもわたしが遊びに行くとき以外は1人でいたんですけど、お友達や神様がいたらもっと素敵だなぁと思いました。

子供の頃にやったおままごとを大人になって再びやっている気分です。
楽しいです。

もちろんですが、リアルな知人や友人、家族にも誰にも言ったことはないし、今後も言うつもりはないです。

幸せを感じる日

朝起きてカーテンをあけたら今日は晴れ。

裏庭の川を流れる水の音を聞きながら、午前中の光を浴びて庭の木の葉の緑が輝いているのがとても美しくて、現在無職のわたしは窓際に長いこと座ってそれを眺めながら淡い幸せを感じていました。

昔は旅先でしか、そんな気持ちにならなかったものだけど。
きっと日々に気持ちに余裕がなかったんだろうなぁ。

わたしの両親は頻繁に喧嘩をします。
小競合いから大喧嘩まで、豊富なバリエーションを持っています。
そんな実家では気が休まらないので、わたしはずっと一人暮らしをしていましたが、父が闘病中なので、現在は正味4ヶ月程実家に滞在しています。

父は末期癌とはいうものの、本人は知らないのもあるし、現在は体調も良く元気なので、相変わらず母とバトルを繰り広げています。

でも、それも今のわたしには、それすらも幸せに感じます。
父も母も元気で生きていてくれている今の時間に感謝しています。

両親は幸せとは思っていないだろうし、お互いにうんざりしてるんだろうけど。昔はわたしもそれを見てうんざりしていたし、なんなら相性が最悪なんだから離婚したらいいくらい思っていたんですけどね。

でも、わたしにはわからない夫婦の関係があるんでしょうね。
色んな意味で巻き込まれないように、わたしは両親と過ごせる今日の幸せに感謝しようと思います。

不思議な本

今日の午後、五木寛之さんの「気の発見」という本を読んでいたんですよ。
天気が良かったので、末期癌の父と一緒に桜が満開の近所の公園のベンチに座って。

わたしは読むのが早い方なので約1時間30分程度ですかね。

そしたら、途中から頭がきゅーっとしてきて、身体が火照ってきたんですよ。
ヒーリングを受けたときのエネルギーみたいなものが、読んでる間とその後1時間くらい、ずっと降ってくるというのか、何というのか。
わたしは真夏でも殆ど汗をかかないのに、汗ばむくらい。

この本は五木寛之さんと気功家の望月勇さんの対談本なんですけど、この望月勇さんという方の何かなのかも。
残念ながら、わたしにはそちら方面の能力はあまりないようなので、詳しくは解らないし説明も出来ないのですが、文章に魔法でもかけてあるみたいな感じがしました。
対談なので、この方が書いた文章ではないのにこんなことってあるんだなぁ、と不思議な気分になりました。

内容も良かったんですけど、内容よりもエネルギー感がすごくて驚きました。
ちなみにこんなことは初めてです。

明日、試しにもう一度読んでみようと思います。

祈りと量子力学

長い年月、人々に支持されてきた物や事柄には何かしらの真理があるのだろう、とわたしは思って生きてきました。

だから、宗教、科学、哲学、芸術には、人生においての真実や大切なことが含まれているのだろう。それらには多くのつまならいものや偽物があるがその中から、本当のことを見つけることが出来たら、人生は素晴らしいものになるのではないだろうか。

そんなふうにわたしは思っていました。

特に日本では忌み嫌われている宗教や信仰。
わたしはこれに興味がありました。
拝金主義の匂いがするもの、権力や利権の気配がするものは論外だけれども。

幼い頃から死ぬことを恐れ、でも生きることの理不尽さ、不自由さ、不思議さを感じてはいるけど、どうやらその疑問に対する答えは親も先生も知らないようだ、ではどこで回答を得るのか?やはり宗教ではないだろうか、と。

そして、趣味が読書なので色々な宗教に関する本を読むなかで、先日このブログに書いたように神は自分の中にいるという思いに至り、わたしにとっての信仰とは自分の中の神を信じることになり、また祈りという行為に何かしらの真実を感じました。

そして、祈りには何故効果があるのかということが量子力学によって3次元的に説明できるものになりそうだ、ということに感動しています。

わたしは量子力学には全く詳しくないのですが、優れた人というのはわたしのような理解力のない人にも理解できるように説明してくれるものなんですよね。
でも、それをお伝えする才覚がわたしには全くなさそうなので、量子力学について興味がある方は書物やネットで調べてみて下さい。

直感が優れているわけでもスピリチュアルな能力があるわけでもないわたしの場合は科学的根拠があればより心強い気持ちになりました。

祈りに限らず引き寄せの法則とか想念の世界、というのは量子力学で説明できるのかもしれないですね。

祈ればそれが現実に投影される、ただし本当に自分が望んでいることであれば。
だから、本当は自分が何を望み何がしたいのかを把握することが大切なんだと思います。

友達との縁切り

父親の末期癌によって、このブログに書いてあるような様々なことを考えるようになる前のこと。

わたしは長年の友人との付き合いをやめようと思っていました。

これまでも、数回そのように思っていたのですが、執拗な連絡に負け、そして話してしまえば相手にはっきりそのように伝えることができないわたしの弱さがあって、うやむやになってしまった上での付き合いです。

良い部分も沢山知ってるし、一緒にいたら楽しいときも確かにあります。
イヤなばかりではないんです。

だけど、長い付き合いのため、わたしが何を言われたら嫌なのかがわかっていて、それを多分わざと伝えてくる彼女にわたしは怒り大爆発。で、腹いせに彼女が嫌がるだろうことを口にするから、また重ねて言われて言い返して。。。

平気な人もいるとは思いますが、わたしにはこれが本当にキツいんです。
他の友人関係では一切ないし、またあるのなら自然に友人ではなく知り合い、とかになるんだと思います。

知り合いの距離感なら、道で偶然会ったときに笑顔で挨拶も出来るし、立ち話くらいなら全然楽しくできるはずですから。

そこが、自然に知り合いの距離になれず、執拗に友人関係を保つように喰い下がられ、わたしが自分を押し殺して彼女の要望を優先したために最後には苦しくなってしまい、特に何もないのに再び電話に出たくなくなってしまいました。

そして、それでいいと思ってました。
執拗な電話もメールもほおっておこう、と。
いつもは連絡を無視することに罪悪感を感じてしまっていたし、今回も感じていました。
でも、これを繰り返してどうするんだ、もう終わり、わたしは怒ると疲れるし、やり返してしまう自分も嫌だと。

でも、起こる問題は全てわたしの責任、という考え方を得たことによって、わたしに激しい怒りをもたらす彼女のことが思い当たりました。

何故、わたしは怒ったのだろう。
何故、しつこくされると嫌な気分になるんだろう。

それを例によって自答自問しながら考えることによって、確かに自分のこだわりを見つけることができました。

そうしたら、彼女に対する一方的な怒りや憎しみに近い気持ちが、すっと軽くなり、わたしにこれを気づかせてくれるために長年友人でいてくれたんだな、とむしろ感謝の思いまで出てきました。

もう、彼女と友人として関わるのはやめようというのは変わらないのですが、どうか幸せでいてもらいたい、と心から思えるようになりました。

思考は寄り添うように、愛している人に対するように

嫌だ、悲しい、苦しい、辛い、腹立しいなどの感じ。

感情。
これをただ感じてみる。
そうすれば、感情は昇華されていく。

問題なのは、感情によって喚起される思考で、だから駄目なんだ、わたしは◯◯だから失敗したんだ、などと過去の記憶を喚起して思考で責めたりすることなのだと思う。

思考は感情に振り回され、自分へのダメ出しをするためにあるのではない。

感情を感じたら、思考は素早く寄り添い、愛している人に対するように感情に接してあげるのが良いのだと思う。

嬉しいときも楽しいときも同様に。

わたしは瞑想があまり得意ではないのだけど、このような思考はそれに近いものがあるかもしれない、と何となく感じる。

いつも自分に優しく寄り添い見守ってくれる人がいる。
それがわたし自身であること。
そのことは生きていく上で、大きな大きな支えになるだろう。